"梅窓会ブログ「我ら日校健児」" 2011年3月28日 人生と出逢い 第2回 中学入学 堤 健 二(昭和19年日本中学校卒) 昭和十四年四月、父の薦めで私立日本中学に入学しました。校長猪狩史山先生が西荻在住で私の家から三百メートル位の近所に居られ、その長いふさふさとしたごま塩髭をなびかせながらステッキを突いての、毎朝の登校風景は名物だったからです。日本中学は明治十六年東京英語学校として当時東京大学予備門(後の旧制第一高等学校)の校長杉浦重剛先生が創学した学校で人材育成に重きをおいていたのです。横山大観、佐佐木信綱、巌谷小波、吉田茂、岩波茂雄、永井荷風、高山樗牛、荒木貞夫、白鳥敏夫、加藤勘十、小野喬はじめ数限りない多数の名士を卒業生として輩出しています。杉浦重剛は膳所藩(滋賀県大津)漢学者の家の生まれですが、二十一歳という若さで文部省留学生としてイギリスに化学専攻、更に上海東亜同文書院にも留学し、小村寿太郎(後の第一、二次桂内閣で外務大臣)とも親交があり科学立国を重視する開明派である一面、時の外務大臣大隈重信の主張する西化教育(特定学課は凡て英語で授業)に反発し小村寿太郎と爆破計画(未遂)を立てるなど国粋的な面もあった人です。猪狩校長は杉浦重剛の薫陶を受けた後継者でした。従って教科では伝統的に英語と歴史教育に特に力を入れていて、なんと入学して初めての月曜教科が、第一時限は上田駿一郎学監(大阪外語大卒)による『杉浦重剛先生小伝』(猪狩史山校長著)の講義、第二時限がジェームス・ハリス先生の英会話講座で始まるというユニークさで、入学早々から背中に一本気合いが入ったようなスタートでした。 堤青年が大志を抱いて見上げた一号館。その荘厳な佇まいは今も変わらない。 英語の先生は和泉、柏原、宮田、高村、小島、岩村、野口の諸先生方で、東大英文卒、早大英文卒、外大英文卒が主流であった。特に思い出深いのは、東大卒の先生を中心に一、二年の教科書は全文暗記を建前とし、休み時間又は放課後に先生の前とか、ご自宅にまで伺って暗記した処まで全文を読み上げる訳です。すると一点マークを先生の点数表に記入して貰い、フルで年間約五〇点となり、期末と授業中の筆記試験が後の五〇点で合計一〇〇点になるのです。結果としてこれはロイヤルイングリッシュを身につける最良の勉強法で、後々海軍時代から社会に出てまでも非常に有効な教育を受けたと感謝しております。実は当時、既に軍部・教育界を含め時流におもねる軽薄な世評として『英語は敵性外国語である』等とする妙な意見が部分的に台頭し、先ず公立学校を皮切りに教科書を見直す風潮すら出掛かっておりました。英語教育を軽視する動向が漸く芽を吹き出していたのです。然る世相の中にあっても尚、我が日本中学校では毅然として、猪狩校長以下諸先生方が伝統ある校風を守り貫いて呉れたのです。英語授業で今一つの特徴は、一,二年生の時の英国人二世ジェームス・ハリス先生の毎週月曜の英会話教室です。前半は一人一人(ひとりひとり)の簡単な対面会話で発音を直され乍らのオンリーイングリッシュ応答、後半は容易な英文の物語を英語で解説しながら聞かして呉れましたがこれは大変楽しかったものです。皆英語が好きになりました。ハリス先生は父が英国大使館員、母が日本人の日系二世で、当時二十三歳、ジャパン・アドバータイザー社の記者で正確なロイヤルイングリッシュを話されると共に流暢な日本語も駆使され、昭和十三年九月より当校英会話講師を担当していましたが、昭和十四年四月の天津事変勃発に端を発する対英米関係険悪化に伴い、私達が二年生の時には終にスパイ容疑で学校を辞めることになり、残念がった先生は日本陸軍二等兵として志願され、前線での英文教宣活動などに従事されたそうです。(著書:『私は日本人なのだ!』)戦後は旺文社に籍を置かれてNHKのラジオ講座『百万人の英語』の講師として有名な方です。兎に角私たち同期の級友の英語力の強さは、当時同学年の府立他校生より可成り上位だったと思います。予備校で比較してみても教科書からしてレベルが違っていて、心中秘かにですが彼等が気の毒だとすら感じていました。 NHKラジオ講座『百万人の英語』で 戦後日本の英語教育に大きな貢献を果たしたJBハリス氏。 本校今一つの特徴は、歴史教科を重視して、特別講師として國學院歴史学教授で我々の先輩にあたる樋口清之先生の年一度ですが四時間ぶっ通しで二日間或いは二週に亘る日本歴史通史の講義です。これは毎回テーマが変わり、文化、科学、医学、風俗など古代より近代に到る全年代に亘る講義で、その面白さ喩えようもないものでした。例えば科学史では種子島鉄砲伝来の逸話に始まり中国・朝鮮を経て渡来した秦氏の段になると、伊賀忍者は秦氏に由来し、その技術的伝承を一くさり説明した後、先生は実は伊賀忍者の出身であり『儂のお爺さんは「エエイ!」と一声でこの教室の壁を駆け上がり天井より飛び降りて来ることが出来たのだよと、それは体も鍛えたが寧ろ特殊な足袋(道具)を使ったからだよと。又、家康の命で江戸京都間を一日で往復?することが出来て、その時の足袋とか走り方はこういう歩行方法だったのだよ』とにこやかに語るのです。同様に猪狩史山校長の壮大な『ジンギスカン伝』。農作業の笹村良紀先生の『青ヶ島島史:火の島に生きる悲劇』・『勝海舟伝』。また博物学の寺崎留吉先生、二千五百頁に及ぶ植物図鑑大全集を記述され、授業ともなれば『自然とは真っ直ぐ向き合い自分の目で確かめなければなりませんぞ!往々にして嘘が多いのじゃからね!』と厳しく指導され(これはファーブルが『昆虫記』で一貫して主張するところにも通じると思いますが)、そして授業に際していい加減な標本を持参したり、授業中ぼんやりした生徒がいると毎講義の度にですが何名かの生徒がこっぴどく叱られ、皆戦々恐々たるところもないでもありませんが、実は心の大変暖かい老先生でした。その面影、特に先生の意にかなった良い標本を生徒が持参したときのニッコリと笑った顔等々忘れがたいものです。 JBハリス氏著『僕は日本兵だった』1986年出版。 後輩諸君にもぜひ読んでいただきたい。 そして当時戦争拡大に向かう昭和十四・五年頃の世相ともなれば、中学一・二年生である私たちですら思う事でしたが、多くの先生方が、日本の将来の為には悲惨な結果しか生まない戦争は何としてでも避けるべきと考えておられ、私たちにも必死で語りかけ訴えかけていたのだと思います。猪狩校長先生はジンギスカンの西征に託して、強大な経済力を持つ欧・米・ロシアとの付き合い方を指摘し、東京美術学校(現芸大)彫刻科出身でありながら敢えて農業指導を担任された笹村先生は、島国日本の火急時の悲惨さを『青ヶ島』火山爆発時の島民の惨憺たる結末に、或いは処世の心構えを明治維新という緊迫時の『勝海舟の処世』事績(例えば江戸=東京を火の海にしてはならない)で訴えていたものと思います。特に笹村先生は農業の時間には全生徒に向かって必ず『アメリカの赤蕪の効用』をひとくさり話してくれ、これは一寸アメリカ漫画『ポパイの菠薐草』をイメージさせる処もありましたが、実は話はもっと深刻で、アメリカ大統領ルーズベルトが昭和八年に遡るニューディール政策(当時の世界的不況からの脱却)で、当時已に近いと予見された第二次世界大戦勃発の必然性に備え、巨大ダム二基の建設に始まる産業復興に着手していたのみならず、いざ戦時ともなれば老人・女子・子供達でも、荒れ地で容易に栽培が出来、しかも栄養価も高い赤蕪の栽培を奨励するという綿密な農政改革をも既に進めていたわけで、先生はこうした欧米人の科学的合理性につき生徒達に警鐘を鳴らしたかったのではないでしょうか。先生は本来彫刻塑像家であり昭和十七年には本校の記念碑ともいうべき杉浦重剛揮毫になる「身心清潔・・・」の壁面訓を正面玄関一階に彫作象嵌され、また、戦後には本校先輩で早大建築科教授の今井兼次氏と共同創作で信州穂高村に「録山美術館」を完成、晩年芸大助教授になられたと聞く。 笹村良紀先生の彫作象嵌による杉浦先生揮毫。 今も玄関ホールで学園を見守る。 国文法の鈴木勝治先生・桑原岩雄先生はどんなに暑かろうとも詰め襟で黒又は純白の教官服を乱すことなく着用、毅然として貴公子のごとく端座され姿勢を乱すことはなかった。両先生はまた西荻窪の吉田弓道場【当時吉田先生は日本中学弓道部(部長は柏原先生)の指南をされていた】に通い弓道の修練もされていて、羽織袴で弓具を持たれた先生方に私は予備校帰りとか中央線の車中で時々お目に掛かった。ところで当時私の家の近くに約二千坪の小張邸があり当主小張昭吾氏も吉田道場で弓道修練をされていて、私が日本中学に通い始めると、当主自ら私への指導を条件として同邸内の弓道場(的場長さ約五〇㍍)並びに隣接する二基の鉄棒の自由使用を許可して貰うことになった。小張氏曰く「鉄棒で身体と腕を鍛えれば弓術も飛躍的に伸びるし、将来は更に乗馬を加えれば理想的な修練にもなる」と。以後小張氏について鉄棒の基礎から習い始め三年生の時には中車輪を経て大車輪もこなせるようになり、並行して弓道の基礎から指南されて、やがて強弓を引いては五〇㍍先の的をも一気に射止め「パーン」と澄み切った音に爽快な気分を味わったものである。また先生方お二人には新宿予備校でも国文授業でお遇いしていたが、教鞭のとり方の端正なのは学校と変わらず厳しかったと記憶する。中学での授業では桑原先生は国文の基本を万葉の『やまと言葉』に置いておられ、濁音・撥音のない日本語の美しさを強調し、その点留意して古文は注意深く読むことを推奨されていた。池田英雄先生と言えば学友の大部分の方は、あヽあの「習字の先生」。と認識されていると思いますが、実は先生は御尊父共々二代に亘り中国古典が専門で、三千五百年前の殷代の甲骨文字に始まり、中国最古の世界的な歴史書《司馬遷の史記》の研究と膨大な著述を完成されたわけです。外見は線香のように細い弱々しそうなお身体で今もってお元気なのはそうした鋼のような志のなせる業ではと頭が下がります。 近代『史記』研究の第一人者であり日本中学校OBの池田英雄氏。 101歳の今もお元気に活躍されている。 私もお陰で五十歳頃より中国語をマスターしたいと志を起ててはや三十年余になりますが中国語と共に文化にも親しみ、十八史略原文全編を七年程かけてやっとですが一応読破し、旅行では商都《殷虚》に甲骨文字を尋ねたのを皮切りに孔子廟の曲阜、龍門・大同・敦煌三大石窟と仏像群、敦煌城跡より駱駝の背を借りてのタクラマカン・ゴビ砂漠の旅、西域入口で今なお烽火台を遺す城址玉門関・陽関と、更に西の果て二千二百年前、秦代に構築され今は朽ち果てた万里の長城跡等々、悠久の気を満喫しました。これも実は中々体力のいることで、思うに矢張り中学時代に漢文への親しみが身についたお陰ではということです。想い出は尽きません、教壇の前を右に左にと動物園の白熊の如く歩いて講義をされた地理の大和先生、若くて色白の青年教師でした。先生は教壇に立つこと僅か八ヶ月で応召され後如何されたか、ご無事を祈るばかりです。続けます、 偶然ですが、私が会社勤めして新婚時代を迎えたのは浜松でしたが、そこで地元の社員に教えられて夫婦茶碗を買いに寄ったのが、浜松市内で一番大きな駅前の丸八茶碗屋です。そしてなんとそのお店の御曹司こそ、私が中学二年生時代に博物の先生であった田中亮三先生だったのです。先生は講義の時「やはり云々」と言う処を「ヤッパヤッパ云々」と言われるのが癖でしたが、一年の時の寺崎先生の厳しい科学者然とした指導ぶりに比べ、浜松風の春風駘蕩とした指導振りは正に信長と家康を対比させると云ったところでしょうか? 一年生の時の化学の阿部先生は、授業中、先生自らで実験中なのに、先生の話をよく聞かずに私語をしている生徒がいると、先生は「こらこら!」と軽く窘められるのですが、総じて声が嗄れているものですから、何時も「カラカラ!」と苦笑しながら注意するのです。それが何ともユーモラスで暖かく、私たちは化学が一層楽しみでした。阿部老先生が顔を輝かせながら金属ナトリュームを硝子水槽に投げ込み、激しい黄色の炎色反応を眺める様は、まるで幼児が花火を夢中になって見つめるようで、そのお顔は未だ以て忘れられません。 岐阜に西部とお名前を変えてお住まいの漢文の亀谷文雄先生は未だ以てご健在で、当時から謹厳実直、暖かい先生でした。暫く前までは上京された折など池田先生を訪ねて寄られたと伺っていました。漢詩と言えば、講堂で時々学年全体の詩吟練習を指導下さった茶原先生も名物で、全員で二,三の漢詩を共に吟詠練習した後、同級生で詩吟部の松井君を相手取り、先生自ら真剣を帯びての剣舞の基本を示し指導して下さるなど他校では経験できない事でした。 と云うわけで他校に比し甚だユニークだが、生徒一人一人の心に訴える先生方の授業は素晴らしいものであり、私なりによくぞここに学び得たりと秘かに誇りとして通学していたわけです。卒業後も同窓会その他何かと機会がある度に先生方や友人達のことは懐かしく想い出されることでした。 若き英語教師JBハリス先生をお迎えした生徒たち(昭和13年)。 所で一方、私が中学に入学すると、父は直ぐに「幼年学校を受験してみるかね、新宿予備校は軍学校受験専門の予備校だそうだから手続きしとくよ」と。私は納得したわけではなかったが、兎に角四月から土日を除く毎晩五時から八時まで三年間通い続けることになったわけです。予備校では国文の畠山先生(後に日本学園の教師になられた由)はじめ諸先生に傑作な方が多く、しかし一年先取り教課主義で、小学校時代から通っていた者はよいが、後れている学課に追いつくのは大変でした。しかし授業は結構面白くて我ながらよく通ったと思います。遅れは学年・学課別で概ね夏期講習時に取り戻す訳ですが、宮家の息子などもいました。 ここで学校の授業と予備校の教課内容をどう学び分けたら良いかということでは、一年生の時は幼年学校進学を主体に予備校教課に重点を置いて勉強を始めた訳ですが、本来私は小学生時代から兄達を見習い、『試験前の一夜漬け勉強はやらない』という習慣で育ったので、予習復習に手を抜く学校成績は次第に下がって行き、一学年担任の伊藤先生からは、何度か「どうしたのか?」と注意されていましたが、私自身は二、三年のうちには必ず実力が追い付き追い抜いてみせると自信もあり先生には申し訳ないが、まああまり気にもしていなかった訳です。しかし一年三学期になったとき突然父の意見で幼年学校受験は中止ということになり、以後二年生では学校授業に次第に重点を置くようになり、予備校の教課は本来一年先取り方式なので実力補助としての位置付けとしました。そして三年生になると、更に書棚一杯に残っていた兄貴達の大学予科受験参考書の勉強が私のスケジュールに加わり、結果は、受験実力と共に学校の授業内容の理解度も上がり成績も急激に伸びていき、まあ我ながら何とか巧く捌けたという訳です。この事は教員室でも当時多少話題になっており、ですから三年の時の担任であった萩原軍兵先生は私が予科練に征くことを報告した時には唖然とした顔をされた次第です。 一方私は中学に入学すると、盛んに哲学・思想史などを論ずる周りの雰囲気(家村・蓬台・大塚・不破・瀧浦等々の級友諸君だが残念ながら大部の方が今は亡き人となっておられる)の所為か、急に大人になったような気がし、四、五人で友人宅に集い合っては、そこで良く『吉田松陰伝』『昭和風雲録』などいっぱし論じたりしたものですが、それに今一度改めて現実を見直し、生きざまをも見定めたいとしきりに考えるようになり、二冊の本を購入してきて読み始めました。一つは講談社の“世界聖賢英雄偉人伝”二千頁余のもの、今一つは“昭和維新史”四百頁余のもので、いずれもその年内には読み終え、また授業でも数学と化学には特に興味があり、教科書以外に参考書も使って二学年夏休み中に三学年分野まで先取りして自習し、これがその後の私の進路を大きく左右することになったわけです。特に化学の先生はアメリカ帰り(?)で、全化学反応式の総暗記をテスト主体に毎週実施し、これには参りましたが、然しこれがどれ程後に役立つようになったか感謝しています。毎月の化学実力試験は一〇〇点満点の処、私は一二〇点で何時も学級二番でしたが、私よりずば抜けて出来るのが一人いて一五〇点前後取るのです。此奴には敵いませんでしたが。 昭和17年海軍省「飛行予科練習生」募集ポスター。 又、時に先生は、呆けたような顔で『洋式便所は旨くできていて水洗なのだがお前達使い方が判るかな?』と暗に米国の科学力の強大さを示唆したりして呉れていたのです。さて一方、当時の日本の軍需産業は別として、総じて工業技術のレベルの低さ、貧しさは可成りなもので、入学して買ったばかりのス・フの詰め襟がひと洗濯でべろべろに痛んでしまい、学校は慌てて再注文する騒ぎで、その間兄のカーキの詰め襟を借用せねばならない始末でした。いや衣服どころか食物、乗物、身の回り総てが貧しく、情けなく、せめて心情・思想でも豊かで強くありたいと願うような社会環境であった訳です。ピアノを弾く姉妹をもつ中学の友人宅で、よれよれの服を纏ってはヒットラーを評し、モーツアルト・ヴェートーベン・ショパンはじめ様々に音楽を楽しみ良く聴いたのもそうした時期でした。 *日吉駅前氷屋サンでカキ氷買い占め 日吉の友人宅に総勢四名の同級生で遊びに行ったときのことです。急のことだったので、友人のお母さんは慌てて何かないかと、街に買い物に出掛けたのですが、やがてあたふたと帰ってみえて仰有るに“今駅前の氷屋サンが店を開くようだから出掛けてみたら!”と。そこで五名は得たりや応とばかり出掛けてみると、まさに暖簾を娘さんが出そうとしているのです。五人はさっと店にはいってみますと、おばさんが丁度氷を掻こうと準備しているところです「一人四杯ずつ五人前」と一人が元気よく声を掛けますと、「はあーい」と娘さんが笑って後ろで返事をし、さっさと暖簾を仕舞い掛かるではありませんか。私達も呆気にとられ、娘さんに「もう店仕舞いなの?」と聞き、おばさんも「今日の配給はこれだけなんでもう店仕舞い!」というわけです。本当に世知辛い世の中でした。ところで次? *タバコ喫煙事件の勃発と結末 ここで同窓の間で起きた少し変わった事件をお話しさせて貰います。それはなんと入学して間もない一年生後半か二年生始めの頃の事件と記憶しています。入学当初に比べ少し学校の雰囲気にも慣れると人間心のたがが緩むのか、好奇心旺盛な時期でもありますが、とは言え時局はそんな悠長な時期ではない筈で、多くの者は勉学・思想・体力錬磨とそろそろ脂がのり始めた刻なのに、何とH君はじめ二・三名の首謀者と、誘われて同調した一〇名程の同窓の不届き者達が、校内か校外の何処でなのか知りませんが、集団でたばこ喫煙をしてこれが発覚したという訳です。結末は、本人達は勿論父兄も呼び出され、厳重戒告の末確か最高は一ヶ月の停学処分から軽い者で一日の謹慎戒告と決まり、掲示板張りだしで一件落着とはなりましたが、同窓の私たちも余りよい気分がせず後味の悪い事件でした。謹慎処分後は一応外見上神妙になった者、相変わらず多少ずっこけたまま変わらない者など様々でしたが、 さて、それから三〇余年后、皆終戦後の苦労の多い人生を乗り越えて社会的にも好い年を迎える頃ともなれば、同窓会も共に戦い抜いてきた同志意識に燃えて、元気で益々賑やかな集まりとなり、そして例の事件首謀者の一人H君はと言うと、何と京浜急行電鉄(株)の副社長だか専務取締役だかになり、済ました顔で同窓会のバス旅行では京急系ホテルからバスの手配まで大変世話になったものでした。更にここで注目されることは、その他の事件関係者の方々ですが、土木建設業から各種中小企業オーナーまで一匹狼で頑張っている方が多いことです。苦労し工夫を凝らしながらも日本の基幹産業を支える重要な役割を果たし乗り切ってきた方々とも云えましょう。個性とか好奇心が他の人々より多少強いか変わった?人達なのかも知れませんが、今日総じて企業のブランド力をのばすことが日本経済再生に欠かせないと言う点では、大企業のみならず、寧ろこうした中小企業の人材とか企業のバックアップ体制の強化とか、そして更には先ず教育面に迄遡っての更なる体制整備こそ、今日グローバル経済競争力で落ち込みつつある日本再生にとっても最重要課題なのではと考えさせられてしまいます。世界に比べても一段と優れた個性の持ち主・人材を如何に見出し、区分し、育て伸ばして行くかと言うことです。 さて同窓の友人達のお話が出ましたので、ここで友人達の概略ではありますが、総合的な消息(今、平成二十三年現時点では、最早大分の方が既に亡くなられているので多数の方が未だ健在であった平成八年当時まで遡った名簿に従い抽出したもの)について解る範囲内で拾ってみました。丁度十五年も遡ることになりますから、年齢は六十九歳か七十歳当時の状況と考えて下さい。 最終中学卒業時の同窓者総数は二百十七名でしたが、戦争末期の混乱の時代を経たためか、その内住所不明者は六十一名、物故者は四十名ですから住所判明者は百十六名になり、名簿上拾える範囲内での職業梗概は 大学教授 東京医大の太田安雄君以下七名。 医師 病院院長市川晋君以下十一名 大手会社役員 東芝副社長家村修君以下二十一名 中小企業経営者 江原俊雄君以下二十二名 太田安雄・梅窓会会長(左)他同期生と日中校歌を熱唱(2010年総会にて)。 その他分類上省略させて戴いた官庁、教育関係、自営業の方々、亡くなられた方とか名簿上不明の方を含めれば、社会的に有為に活躍された方々は当然のことながらまだまだ数多くおられる訳です。同窓会で尊顔を拝し乍ら、戦争から敗戦そして復興と厳しい世代を生き抜いて皆よくぞ頑張ったものだとつくづく思います。さて年譜で世情をいま少し追ってみます。 ⑨昭和十五年一月:米内内閣成立、父「忙しくなったよ、有馬さんに相談せねば!」と首を振っていたが、追い打ちをかけるように陸海軍を主軸に各種兵器廠・航空廠・海軍廠増設等々世は騒然として来て、更に十月には大政翼賛会の正式発足が予定され、父も翼賛会推進員に指命されていながら、なんと突然私には「軍学校受験はどうかなあ?(暗に中止を仄めかす)」など言いだし、更には「戦争も早期に終えるかも知れんしな」と呟くように言うのです。そもそも大政翼賛会の発足当初の狙いは、陸軍改革派を中心とする開戦派を抑止し外交を主体に対米開戦を回避するため、既成政党を解散してでも発足したものですが、逆に軍部開戦派に都合好い様に利用され、結局は国民的規模で開戦への歩速を早める結果を招いてしまったことは皮肉なことでした。それは先々の話ですが。私としては、当時これは父が政府与党政友会関係の主要な筋からの入手情報であろうと、想像はついていたので黙っていることにしました。然し実は昭和十五年も押し詰まる末頃には既に私なりの考え方【大勢として日米開戦が必至で時間の問題であるなら、寧ろ今こそ国の戦いに生死をかけても、己の終極の目標に生きる道を選ぶべき】も固まっていたのですが、然し親兄弟・誰にも黙っていました。この頃は日本人一人々々が『戦争と平和についてどう向き合うべきか』と、胸の中で悩み抜いた時代でした。 当時、私は倫理学者であり且つ国際人(国連事務次長)でもあった新渡戸稲造著『武士道―日本の魂』を通じて佐賀鍋島藩の『葉隠』の精神にも触れ【武士道と言うは死ぬことと見つけたり=武士は己の生死に拘わらず、まず己が如何に生きるか正しい決断をせよと説いたもの】、これが今は概ね自分の歩む道と覚悟を決めていた訳です。(註Ⅰ)また折に触れては父や下の兄が時々ちらっと漏らす話を手探りに、例の熟読中の『昭和維新史』の文面裏に込められたもの(当時日本のあらゆる面での国力からしても日支事変の早期終結の必要とこれを巡る中央閣僚間の鬩ぎ合(せめぎあ)い)が少しは解って来ていたのです。天皇を中心とする重臣その他側近派・海軍首脳部・親英米派文政官らの意見と、これに対する一方の畑陸相らを中心とする一夕会陸軍タカ派首脳部・松岡外相らの日独伊三国同盟推進派と南方進出推進派の意見(実は米英どころか更にはソ連すらも仮想交戦敵国としていた)の間には抜き難い認識の差があり、それが強引な第二次近衛内閣設立強行という結果になったようです。(骨抜き近衛の変心と云われた。)開戦への足音は急ピッチに高まっていきました。 和辻哲郎・古川哲史校訂『葉隠』~後輩諸君にも、ぜひ読んでいただきたい一冊。 註Ⅰ葉隠 当時日本の戦時体制が進み切迫するなか、戦場を意識する人々の心の拠り所として『万葉の心』『武士道の精神』が改めて見直されており、私も九州佐賀(母方実家)の出身ということもあり、新渡戸稲造著『武士道』そして佐賀鍋島藩武士心得『葉隠』に傾注し、やがては生きざまは『葉隠れ武士の如く命を賭けて』。と決意するまでに昇華していました。参考までに葉隠の主要名言を記載します。予めお断りしておきますがこれは飽くまで鍋島藩武士のマナー書であり倫理哲學書であり、徳川時代初期の儒教的武士道(朱子学思想による)の形骸化を批判し、理想的武士道の樹立を目指すべく鍋島藩士山本常朝により著されたものでありまして、後々戦争末期に一部軍部指導者が策謀利用し「一億総玉砕の精神」とか「特攻隊魂」などと、死を賛美し国民を追い立てるが如くに利用したものとは全く無縁なものです。念之為。 名言1 「武士道というは、死ぬことと見付けたり」 『葉隠』の中で最も有名な一節で、事に当たっては己の生死に想いを致す前に、先ず己にとって最も厳しい目標設定【即ち立志】をするべく覚悟を決めて掛かれと言うことです。要は武人ですから常に死と直面するのは当然で、故に術策と魂の錬磨により強く生き抜けと言うことでしょうか。勝たねば生き抜けませんから。 名言2 「七代生まれかわっても国に尽くす決意」 飽くまで自分の生まれた故郷・人々を愛し、尽くすことを常日頃肝に銘ずること。 名言3 「お家を一人で背負って立つ覚悟をつくれ」 維新の頃の武士・志士達は本気で左様覚悟をして取り組み、 これが維新改革を成功に導いたと思われます。 名言4 「りんとした気持ちでいれば七呼吸の間に判断がつくものだ」 巧遅よりシャキッと迅速に決断していく方がよい結果に繋がることが多い。 名言5 「ならぬと言うは成し様足らざるなり」 工夫を重ねて精一杯努力せよと言うことでしょう。 名言6 「酒と言う物は仕上がり綺麗にすべし」 仕上がり綺麗とは凛とした武士らしく飲めと言うこと。 名言7 「孔子は十五にして学問に志を立てて聖人たり、修行の故で聖人になったのではない」 武士道精神では先ずいかなる志を立てたかが聖賢の道たり。 志立たずいくら修行しても凡庸に堕するのみと。 名言8 「只今がその時、その時が只今」 緊張する場面こそ、平常心で対処せよ。 無事日常時こそ非常の際の覚悟で集中して物事を処理すべき、と。 名言9 「世が末になったのが悪いのではなく、人が精を出さなくなったのにこそ罪がある」 結局世を立て直すのは人間が精を出して人間自身が立ち直っていく以外に方法はない。と 名言⒑ 「分別で突っぱれずば、無分別こそが肝要なり」 あれこれ悩んでいると突っぱれない、こんな刻は心を集中して全力で襲いかかることが重要だ。 名言⒒ 「修行に於いて成就と言うこと無し、成就と思う所その儘道に背くなり」 一生不足々々と思い死する所こそ後より見て成就なり。 名言⒓ 「武士道は死狂いなり」 何事も迷いを捨て損得抜きで狂った如く取り組むこと。アインシュタインも語っていますが「結果というものに辿り着けるのは、偏執狂だけ」と。その辿り着いた処は本人にとって究極の一点というわけです。 『葉隠』とは葉の蔭→見えない所=蔭の奉公を大義とすることです。 さて年譜を更に追ってみましょう。 ⑩昭和十六年一月:情報・経済・産業統制が益々進むなか、三国同盟強化への松岡外相訪欧と一方七月日本軍南仏印進駐は日米交渉決裂を決定的なものとし、近衛首相の野村米国大使(我が母校日本中学の先輩)を介しての和平工作(米国ハル国務長官提案になる日本軍の中国撤退受諾)も、中国での日本人戦死者十六万人の犠牲に配慮する東条陸相の強硬な反対に遭い、日米戦争回避は略々不可避(然しこの結果として大東和戦争犠牲者は最終的に約二百万人に上った)の情況になっていて、私達周辺はじめどこもかしこも日本国中凡てがただならぬ緊迫感に包まれていたわけです。 そして私はというと、その頃にはもう何の迷うところ無く、一心に、遮二無二に勉学に励み、透き通った思いで遠くを見ているような日々でした。戦後国文学者になった国文法の桑原先生から「お前は・・・この頃何を考えているんだね?」と顔を覗き込まれたのもそうした頃でした。それは、「今、目前に近づくこの近代戦に臨んでは、陸士・海兵出の職業軍人・士官としてより、一戦士として、一飛行兵として最先端技術の戦場に臨むべきではないかーそれは死中に生を拾う厳しい道筋ではあるが」と昨年末頃から思い定めていたことでした。四月になると役所に甲種飛行予科練習生志願に就き問い合わせに行き、その結果甲種は中学三年終了以上が受験資格であるが、今年より軍学校就学年限短縮令(四年卒業→三年卒業)との見合いで三年終了予定者(二学期終了見込み者)でも本年後期受験は受け付けるということで八月願書提出、十月後期試験受験、合格、十七年一月三重海軍練習航空隊に繰上入隊ということに決まったわけです。時に未だ十五歳という若さでしたが自分ではいっぱしのつもりでした。 戦時中の面影を今に残す三重海軍航空隊正門。 ところで、ここで大問題は予め父母に受験のことを話せば反対されるに決まっていると考え、一切親兄弟にも相談なしで受験し合格してしまった訳ですから、これをどう説明したら納得して貰えるか大変悩んだのです。従兄の弘利が海軍飛行士でいて亡くなった時のように父母は悲しむのでないか、或いは想像も出来ないくらい怒られるのでないかと。しかし結局自分のことは自分で責任をとる覚悟から出たことだから説明して理解して貰えると勝手に心に決めて、その夜父母に黙って合格通知を見せたわけです。最初父母は驚きのあまり私をじっと見ただけでいましたが、二人顔を見合わせるとやっと「そうなの・・・ でも身体だけは粗末にしないでね」と言ってくれただけでした。そう言うのがやっとだったのかもしれません。そのあとは目を伏せていましたから。その頃の私の勉強ぶりは正に受験生そのもので毎日夜中過ぎ午前一時過ぎまで、兄達の使った本箱一杯の受験参考書を引っ張り出しては貪るように勉強する日々で、母からは度々「無理して病気してしまったら何にもならないよ」と注意されていた位でしたから、私が海軍にはいると知るまでは父母共にいずれか大学予科受験か軍学校なら陸士・海兵・商船学校あたりを目指しているのだろうと思っていたのでしょうが、私自身の考え方では、予科練に征く征かないとは別問題として、戦いの場に征けば暫くは勉学も出来ないようになるのだから、今こそ全力を振り絞って勉強しておくのだ、と一途に考えての事でした。娑婆にいる許された時間は僅かなのだといった切羽詰まった思いだったのです。しかし頭の中は不思議なほど透明でした。 中学時代の想い出を今少し続けます。どちらかというと理科系に進みたいと小学生の頃から考えていた私ですから、他の授業に比し数学の授業には殊更に関心を持っていました。のっしのっしと人の倍も腹が出た代数の及川先生、一方、光り輝き知恵いっぱいで出張ったおでこを振りかざしての幾何の山本先生など数学の先生方の授業はこれまた気合い充分で、ご自分の背広やガウンが黒板の白墨で白く汚れるのも構わず説明を続け、だが一方では顔いっぱいの心配顔で繰り広げる『数学に自信が無いのか反応が鈍い生徒達にどう理解させようかとの攻防』の日々。どうやら当時日本中学生徒の伝統的弱点は総じて数学力の弱さと読めました。ところで私はと云うと、小学校以来数学は可成り好きなほうで時間を割いては先取り学習をしていたので、時間外に教員室に山本先生・及川先生を訪ねては解らないところを教わり質問をしたりしていました。後に大学を経て技術者としては勿論、諸事思考全般についても数理・数学とのご縁は切れることなく事ある毎に勉学を積み重ねてきました。理数系に限らず諸学の実践面で定性・定量化する為にも最も重要な基本は数学だとの思いは益々強固なものとなっていました。 物理・化学の先生の『生徒以上に楽しげでユニークな実験指導』風景。国語副読本の先生の「たて板に水を流すが如く」と自画自賛する『平家物語・十六夜日記等々語りの名調子』、その他云々といった具合です。一方、国の軍事拡大に伴う配属将校・特務曹長達を中心とする教練なる厳しい軍事基礎教育、また出征に伴う人手不足を補うための農家への勤労奉仕などについても、当時世相を反映したものとは云え、本来中学校の場としては、生徒にとっても教師にとっても共に軽視することの出来ない大問題であったと思います。生徒・学生にとっては最も大切な平和な一時と学力を養う時間・空間であるべきなのに、国の為とはいえ、これを無駄に蝕むものといった認識があったことも否定できないことです。こうした事態をそれぞれがどう納得し如何様に解決するかということが当時先生方は勿論、学生・生徒達にとっても重要な問題点であったのです。 そこで学校側としては農業の笹村良紀先生が中心となって村田正言、柏原三郎、桑原岩雄四先生方が指導委員となり生徒の学力・意力の低下を転じて集中力・意識の高揚に繋げようと勤労奉仕の進め方を検討したわけですが、先生方の異論やら誤解も重なり、結句は終に笹村先生と丸尾先生の衝突!その揚げ句は云々云々・・・という事態に相成り、何と翌日、私共丸尾先生の授業では、左目周辺に大きな青痣(今風に云えばパンダ面)を残し乍らも、丸尾先生は平然と教壇に現れるや、いつもの名調子で「たて板に水を流す」如く平家物語講義を始められ、その姿には生徒達一同驚きよりも何やら厳粛な感銘すら覚えたものでした。笹村先生は一週間の謹慎を命ぜられるなど一件落着とは相成ったものの、当時先生方は何かにつけ国の施策と学生の教学との板挟みで、少し表現が大袈裟になりますが命懸けの緊迫感を以て教鞭を執っておられたと思います。 そうした最中で私自身はというと、前にも述べましたがもうこうした中途半端な矛盾だらけの環境下にある教学の場で悩むよりは、寧ろ「国を賭した科学戦の最先端・海空決戦の真っ直中に身を投じ、祖国とともに我が人生の活路を見出していくべきでは!」との考えに意を決していたわけです。 昭和十六年十二月八日・真珠湾に向けて出撃する戦闘機。 昭和十六年十二月八日月曜日(ハワイ時間では七日・日曜日の早朝)、私は海軍入隊を一ヶ月後に控え相変わらず朝六時起床・七時登校が毎日の日課でありました。当時上の兄は既に陸軍甲種幹部候補生として豊橋の予備士官学校に入隊して不在であり、下の兄も東京高等農林林科在学で実習林に出掛け、我が家は両親と私の三人住まいで居りました。その丁度朝六時の大本営発表臨時ニュースで(放送は六時二十分より)、日米戦争勃発を知らされたわけです。戦果発表は凄まじく元気なものであり私も「いよいよだ!」と身上に照らし興奮気味に聴いていたが、この発表の冒頭音楽がいけない。勝利の「軍艦マーチ」でもかけてくれればまだ景気がよいのに「海ゆかばみづく屍・・・・・」と、曲は荘厳で若者を鼓舞・激励するにたるものだが歌詞が悲壮感に過ぎ、死と直面した戦場のイメージを重苦しく思い出させる曲なのです。続いて二回目の繰り返しニュース報道が始まったとき台所で茶碗が割れる音がしました。母でしょう。奥の部屋にいる父も森と静まりかえったままです。三回目の放送が始まったとき、やっと父が居間に現れて曰く「始まったな!どうなるのかな?」と。私「どうなるにせよやるしかないさ、頑張るよ!」と。母も居間に食事の用意を持ってきて黙って前に座ると、じっと私を見つめた儘。両親の顔を伺うと、うっすらと目を赤くして緊張した顔だった。私は「今日は予備校には行かずに学校から真っ直ぐ家に帰ります」と家を出た。辛かった。 私が予科練に入隊する日、両親は玄関での見送りに留まり、友人達数人(江原、不破、丹羽、松井、村田他の諸君)が品川駅まで送ってきて、皆それぞれに思い詰めた顔で手を篤く握り返し、手を振りながらの見送りであった。今はもうその方々も悉く亡くなられ当時を懐古し語り合うよすがもありません。 完成間近の日本中学校(現日本学園)松原校舎全景。 当校松原校は、当時校長であった猪狩史山先生の『教育は教師・生徒という中身が勿論最も重要な場だが、「居は気を移す」の諺に従い新学舎を創設したい』との意に基づき、昭和十一年四月淀橋より松原の地に移転開校し、我々が入学したのはその三年後昭和十四年、校舎もぴかぴかで杉浦重剛先生の人間育成の気そのものに輝いていました。入試合格発表の日に一度視ておきたいと、私と一緒に早めに来校した父も、上下二段の広大な運動場と端然とした白亜の校舎の佇には些か感ずるところもあり「おお!」と嘆息して見回していました。猪狩校長先生の主旨で、昭和十一年開校後も引き続き校内施設・新鋭の教師陣は年々益々充実され、今にして思えば私たちの入学した昭和十四年頃が環境としては絶頂期だったのでしょう、残念ながら以後戦争による荒廃は急速に進みましたから。私共は精神・学力・体力総ての面で最も恵まれた時期に学校生活を送らして貰ったことを心より感謝する次第です。 そして更には私に、 『あえて学舎を去り、生死を賭けて戦場に赴く勇気を与えてくれた』ことにも。 その勇気は海軍時代、終始、私の胸の中で燃え続け、私を支え続けたことにも。 第3回「海軍時代」へ続く |