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017(桑原岩雄短歌5首ほか)

桑原岩雄と短歌(その2)
前回、「父が、亡くなる10年ほど前(平成4年)に身辺整理を試み、『コスモス』短歌会の主要メンバーであった教え子の今村寛さんを通して、創刊号(昭和28年3月号)以来の『コスモス』誌を、現コスモス会員の小田部雅子様にお譲りした」ということを書きました。

その時父は、今村さんに、昭和28年(1953年)10月号の『コスモス』誌(釈迢空の死去を報じています)のコピーを取って送り返してくれるくれるように頼みました。
父はたくさんの歌を詠んだはずですが、この身辺整理の結果、印刷された形で父の手元に残されたのは、この『コスモス』誌に掲載された短歌5首『浅草寺附近』だけ、となったようです。

以下にそのコピーを掲げます。

短歌5首『浅草寺附近』(『コスモス』昭和28年10月号所収)

これらの歌が詠まれたのは、戦後に再び教師として関わった日本学園を退職しようとしている(そして、そのあと駿台予備校へ出講するようになる)、まさに父の人生の転換期とでも言うべき時期で、暗く悲しい色調を帯びています。)








父の短歌5首『浅草寺附近』は、「Cosmos集(短歌)」の冒頭に掲載。次が葛原繁、片桐伊作…と続きます。

(註)市川秀樹様から、すぐに「4首目は『さびしさよ』が『さびしよさ』と誤植でしょうか?」とのご指摘を頂きました。
父の読んだ書籍には、しばしば誤植を訂正する書込みが残されています。「これが誤植ならば直してあっても良さそうなのだがなあ」と思い、そのまま写真を掲載いたしました。しかし、いくら調べても、やはり『さびしよさ』という言い方はなさそうです。誤植と断定してよさそうですね。

(追記)父の蔵書を整理していて、『コスモス叢書第5編 第一宇宙花』(昭和31年8月発行)の87頁に父の歌10首が載っているのを発見。「桑原岩雄 東京都 編集事務 47才」となっていて、そこには、たしかに「さびしさよ」と印刷されておりました。一件落着です。

と同時に、冒頭に書いた「印刷された形で父の手元に残されたのは、この『コスモス』誌に掲載された短歌5首『浅草寺附近』だけ、となったようです」は、間違いだったことがわかりました。『第一宇宙花』以外に、昭和37年発行の『國學院短歌』にも10首を残しております。(2014年5月17日)

柿内三郎先生のこと
父が今村さんにこの『コスモス』誌のコピーを頼んだのは、自分の歌のためというより、『コスモス』創刊号より毎号連載されていた柿内三郎(雅号は木然)先生の文章、『美について・その8 芭蕉』(上の『目次』参照)を残すためだったと思われます。

柿内先生の連載は、父が寄稿を依頼し実現したもので、この号の柿内先生の文章にも、父が「あとがき」を書いています。
柿内先生は、当時の日本学園高等学校長。柿内先生とともに、父も日本学園を離れることになり、父の「あとがき」はそのことにも触れています。
(いま柿内先生についてあまり多く語ると、話が脱線していると言われそうなので、次回にでも詳しく述べたいと思います。)


父と短歌結社
母に聞いたところによれば、このあと父は短歌結社の集まりに参加することもなくなり、手帳にそっと歌を書き記すだけとなります。

晩年、孫に向かって「私も、昔は白秋先生に『将来必ず名を成すだろう』と評価されたんだよ」などと言いながら、「こんな歌を詠んだなあ」と自分の歌を口ずさむことがありました。
そんな時に、「どうして歌を詠むのをやめてしまったの?」と尋ねたことがあります。父は「結社に属して活動するというのは、泊まりの旅行などがあって、時間もお金もかかることなんだよ」と言っていたように思います。(生活に余裕ができるのは、駿台に勤めるようになって何年か経ってからのようです。)


父が歌会に出席していた頃の写真を、コスモス短歌会『宮柊二アルバム』(印刷と発行は今村寛さんの伊麻印刷および伊麻書房)より転載いたします。

昭和11年11月、北原白秋主宰の『多磨』秋の吟行会(後列左から5番目が桑原岩雄)


昭和12年8月、第2回『多磨』高尾山大会(後列左から8番目が桑原岩雄)

昭和28年1月、『コスモス』短歌会結成記念歌会(後列右から6番目が桑原岩雄)



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(2013年3月6日掲載、2013年3月13日註追加、2014年5月17日追記、2018年10月2日更新)