<父、桑原岩雄トップページ>に戻る | 009へ戻る 011へ進む


010("匿名希望"様 古文要説T(日記文学編)にみる桑原岩雄先生の教授姿勢)

"匿名希望"様 2009年12月29日
古文要説T(日記文学編)にみる桑原岩雄先生の教授姿勢



From: "匿名希望"
Date: 29 Dec 2009, 05:56:38 PM
Subject: 古文要説T(日記文学編)にみる桑原岩雄先生の教授姿勢
-----------------------------------------------------------

1976年発行の標記駿台高等予備校副読本を入手しました。序説等の一部に、桑原先生の教授姿勢を示す以下の記述がありますので、ご紹介させていただきます。

(序説より)
「一番大切なのは実力のあるという事である。世には特別な受験勉強や、受験の技術というものがあるように思ったり、中には、試験があるために本格の学習ができないなどと言ったりする者もあるが、それらは一片の空想に過ぎない。実力こそ受験の王道であり、、本格の学習こそ実力養成の最高の道である。現在の試験の方法や傾向が必ずしも望ましい状態でなく、多少の重圧や負担になる点がないとは固よりいえないけれども、そのために正当な学習が出来ないなどというのは、弱者たわごと、学習の負担に堪えない者の言い遁れに過ぎない。古来幾多の困難を伴わずに成しとげられた偉大な意志など決してなかった事を思うべきである。」

(この本の使い方より)
「自国語の学習は考える事から出発せよという事である。未知の語の多い外国語などの場合には、考える手だてが与えられていないので、まず辞書をひいて単語の意味を調べるという事からという傾向になり易いであろうが、自国語では、実際にむずかしい単語は少数で、その前後には意味のわかる語がたくさんあるので、それを基にして、わからぬ所を考える事ができるはずである。しかも、ことばというものは、一つの原義を踏まえながら、前後たがいに制約しあう事によって、微妙な意味をもってくるのであるから、常に全体の中の部分として把握されなければならない。文章に限らず何事も部分だけを見る事は平易であるが、全体を見るという事は大変むずかしい。殊に今のような試験の様式―――ある個所に傍線を付して問を設け、正解を選択するような―――にだけ慣れると、部分だけを見て解答を選ぶ事になって、全体を見る力は一層はたらかなくなってくる。宮本武蔵は、その著「五輪書」の中で、真剣勝負の態度を説いて、「観見ニつの目を使い」といっている。「観の目」というのは相手を凝視する目であり、「見の目」というのは周囲全体を見る目である。「観の目強く、見の目弱く」ともいっている。「考える」とは、ことばのこの微妙な味わいの上に立って、文章の構造や論理を究明してゆく事である。換言すれば、「なんとなしにわかる」という心のはたらきがなければ、思考の進展はあり得ないという事である。そういう意味からいえば、この段階において、多少の時間を費やして、少しも惜しむべき事ではない。原文を再読三読するうちに、文章をむずかしくしているものが、単語の意味だけではないという事がわかってくるであろう。

(以上です)

この引用部分は古文に限らず、学習の本質を突いたもので、 読者の目に触れる意味は今日でも少なくないと思い、投稿をさせていただいた次第です。

-----------------------------------------------------------

(2009年12月30日掲載、2012年5月29日レイアウト変更)