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017("小田部雅子"様 今村寛追悼文)

013で、市川秀樹様が父のことを詠んだ歌を紹介してくださってから、父と短歌について、いつか触れてみたいと思っておりました。

また前回、戦前・戦中の日本中学における父の教師時代(昭和5年9月から昭和17年3月まで)について、初めて触れさせていただきました。駿台予備校の講師の時代より、年代をかなり遡ることになりますが、古い時代のことについてこそ、今のうちに書き留めておかなくてはならない、と思うようにもなりました。

機が熟してきたように思います。これから2回、「桑原岩雄と短歌」について触れてみます。



桑原岩雄と短歌(その1)
父は、戦前・戦中においては、北原白秋の短歌結社『多磨』に参加しており、戦後は、同じ新潟出身の宮柊二が北原白秋の精神を引き継ぐ形で創設した『コスモス』短歌会に加わり、宮柊二が亡くなるまで会員でした。(宮柊二が亡くなったあとに英子未亡人より頂戴した手紙が残っております)

父は、亡くなる10年ほど前(平成4年)に身辺整理を試み、『コスモス』短歌会の主要メンバーであった教え子の今村寛さんを通して、創刊号以来の『コスモス』誌を、現コスモス会員の小田部雅子様にお譲りした、ということがありました。

小田部雅子様からは、そのお返しとして、今村寛さんが平成20年(2008年)に92歳で亡くなったその翌年(2009年)に、評論『今村寛の作品世界』と今村寛追悼文『少年寛くん』を頂戴いたしました。
今回は、遅れ馳せながら、その『少年寛くん』を、紹介させていただきます。

「昭和十年、十九歳の今村寛は中学の恩師桑原岩雄に連れられて多磨の歌会に出席、宮柊二と運命の出会いをした。」(『今村寛の作品世界』の冒頭)ということを念頭に置いて、読んでいただけると理解しやすいかと思います。


"小田部雅子"様 2009年6月9日
今村寛追悼文『少年寛くん』


From: "otabe masako"
Date: 09 Jun 2009, 04:27:09 PM
Subject: コスモス短歌会の小田部雅子です
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1年近く前に、桑原岩雄先生の若かりし頃の教え子今村寛についてメールした者です。

文章が書けたらお送りすると申し上げながら、こんなもの、と思ってお送りしていませんでしたが、今回コスモス短歌会で評論賞を受けましたので、お見せしてもいいかな、とお送りします。一太郎の添付ファイルです。
また、コスモス短歌会茨城支部の「今村寛追悼集」に岩雄先生と今村寛のことを書きましたので、これも添付します。

厚かましくもお送りいたします。

コスモス短歌会 小田部雅子











[後記]
父の教え子の方から、『桑原先生は問題集を毎日百題やれと言うんだ。数学だよ』という話が唐突に出てくるのには、違和感を感じる。自分は桑原先生から量をこなすように言われたことはない。1題だけでもじっくりやれば、それだけ力になる、というのが先生のお考えだった」というお便りを頂戴しました。

私たちも、父の存命中に、今村寛さんから直接、お話を伺ったことが何度かありましたので、昭和27年以前の父の居宅(世田谷区代田の貸間、家の半分を借りて家主さんと一緒に住んでいた)に今村さんがいらっしゃって文法の特訓をなさった、ということはよく存じておりました。しかし、数学の問題集についての話は一度も伺ったことがありません。

とは言え、今村寛さんも父もすで亡くなっており、確かめようがありません。「又聞きの文章である」とのご批判はその通りですが、主題は「桑原岩雄と短歌」なのだと思って、勘弁していただきたいと思います。


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(2012年12月26日掲載、2013年1月3日後記追加、2018年10月2日更新)