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013("市川秀樹"様 桑原先生と盤珪の話)

"市川秀樹"様 2011年9月21日、27日、29日
桑原先生と盤珪の話



From: "hideki ichikawa"
Date: 21 Sep 2011, 02:05:45 PM
Subject: 桑原先生と盤珪の話
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以前、メールを送った者です。いろいろな記憶に残っていることはありますが、この文章をお送りいたします。可能であれば桑原先生の欄に載せて頂ければ幸いです。

桑原先生と盤珪の話

私は昭和46年4月より駿台予備校(東校舎前理)に1年間在籍し、桑原先生の古文の授業に出席した。その中で心に残った先生のお話のひとつを紹介したい。

それは盤珪(江戸時代の臨済宗の僧)の悟りの物語である。

盤珪はお母さんを安心させるために学問をしようとした。
寺小屋では最初に「大学」という本から学ぶ。その本の最初を読んだところ「大学の道は明徳を明らかにすることにあり」と記してあった。

盤珪はここで悩んでしまい「明徳とは何か」と寺小屋の先生に聞いてみた。
「私にもわからない。ただ字面だけを知っているだけで真の意味まではわからない。近くに住む禅寺の坊さんなら分かるのではないか」との答えであった。
禅寺を訪ねて住職に聞いたところ、分かるとのことであり、それなら「その意味は」と問えば「口では言えない。座れば分かる」とのことであった。

そこで盤珪は山奥に庵を結び、座禅三昧の生活に入った。長い年月が流れた。それでも明徳の意味はわからず、人と接するからではないかと思いなおし、小屋の中に食べ物を入れてもらうだけのわずかな入り口を残したまま窓を閉鎖し、ひたすら座り続けることにした。
尻には腫れ物ができ、口からは血痰が出た。明徳の意味さえがわかればこのまま死んでもいいのだがと思ったその時、ふっとその意味が明らかとなっていた。

誰かが盤珪に聞いた「明徳とは何か」。
「口では言えない。座れば分かる」と盤珪は答えたと先生は静かにおっしゃった。
意外な答えとこの時の先生の真剣な表情と声を忘れることができない。先生自身が同様の体験をして盤珪を語りつつ御自身のことを語っていたのだと感じた。
口では伝えられないが実体験できる真理の世界が、この世にはあるということを初めて教えられたときだった。


私はその後クリスチャンになったが、聖書を学んでいるときこの悟り物語を時々思い出した。この話が私の人生の扉の開き方を導いてくれたことは間違いない。
18歳の私は58歳となった、桑原先生を思うたびに、盤珪のこの話と教室での場面がよみがえってきて感謝を禁じえない。



From: "hideki ichikawa"
Date: 27 Sep 2011, 08:12:34 PM
Subject: 感謝。
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メールありがとうございました。
桑原先生の身内の方とメールのやり取りをしていること自体夢のようです。桑原先生のページがあったことは感謝でした。

桑原先生は常に思い出す人生の師です。
予備校での桑原先生の語録を思い付くまま少し書きます。

盤珪のところにある人が相談に来た。「親譲りの癇癪持ちで苦しんでいます」「それなら見せてみなさい」「すぐには出せないですよ」「すぐ出せないなら癇癪はおまえが作り出すのであろう。作り出しておいて親譲りなどと言ってはいけない。作らないようにしなさい」

盤珪が講話をしていると、「おまえの話など聞かないよ」と言う者がいた。盤珪が「そこでは聞こえない、もそっと近(ちこ)う、もそっと近(ちこ)う」と言えば、近寄って来たので「なんだ、聞いているじゃないか」と答えた。

ある僧が留学して帰って来るということを聞いた盤珪は港に友と見に行った。その僧が船から降りてくる歩き方を見ただけで「あいつはだめだ!」と言ってすぐ帰ってしまった。このように見る目のある人にどう見られるかが大事である。「恥じるなら明眼(めいげん)の人を恥じよ」(道元のことば)

道元の永平寺に悟りを求めて集う求道者は一万人(千人?)もいた。しかし、その中で悟りを開く人は一人か二人である。その人達と他の人達との違いは何かと道元に聞く人がいた。道元は「切に思ったかどうかの違いである」と答えた。「切に思うこと必ず遂ぐるなり」(道元のことば)

古文を読むと言うことは原文のままでよーくわかるようになることです。よーくわかると言うことはすごいことです。熱湯は一滴でも多量のぬるま湯に勝るんです。

一年や二年遅れたってなんてことはありませんよ。その分長生きすればいいじゃないですか。

交通事故に気をつけてくださいよ。青信号だから大丈夫だと言っても轢かれてしまえばしょうがないですからね。

蛤御門の変の時の久坂玄瑞の部隊は戦いの前に静けさに満ちていたという。有事無事の如く無事有事の如くであった。(先生の古文の模範解答の中の文章)

米内光政(海軍大将)は人物だった(褒めていた)。

文法は覚えてはいけません。覚えれば忘れますから。「書かず、書きて、書く、書くとき、書けば」と言ってみれば自然に動詞の活用はわかります。

教師にしかなれない、教師にでもなるかと言う人は教師にならないでくださいね。教師は大事な仕事ですから。


心に浮かんだものを書きました。一番残ったものは先生の教育の姿勢、生活の姿勢だったと今では思っています。



From: "hideki ichikawa"
Date: 29 Sep 2011, 06:38:58 PM
Subject: Re: アップロードが完了しました。
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アップロードありがとうございました。この欄の存在は私自身ありがたく、見るたびに懐かしさを感じ、元気をもらっておりました。友人にもこの欄を紹介するつもりです。

桑原先生の駿台受験叢書は仕事とは直接関係ないのですが、社会人になってから6冊すべてを読みました。正確な訳文と丁寧な行き届いた解説に先生の古文を読む姿勢が伝わり、私には生き方の教科書のように感じました。

わからなくても、後の文を読めばすこしわかる。その力で前の文を見るとまたすこしわかる。講義での先生のことばを実践する楽しみがあり、講義を聴いているような気持で読み終わりました。古文の文法などいまさらなんになるかと思いながらも先生の巧みな文法の解説なども楽しみながら読ませていただきました。

20年前から短歌を作るようになり、「未来」という短歌結社に入っています。「診療の午後を」という歌集も出しました。思いがけない形で先生の古文の講義と御本が役に立ちました。私の予備校の日を歌ったものに「バプテスマ受けし恵みよ論功に予備校の日の盤珪の話」と言う一首があります。
桑原先生はよく歌を暗誦して講義なさっていました。これらのことも私が短歌に関心を持つ原因になったと思います。
先生の中学生時代に万葉集を読んだこともこの欄で興味深く読ませていただきました。万葉集はいまは私も愛読書になっています。

中山学生寮での講話の話も出ていましたが、私もその翌年(昭和46年)に「日本の弓術」(岩波文庫)という本を紹介しながらの先生の講話を聞きました。狙ってはいけない、引いてはいけないとオイゲン・ヘリゲルが師範に言われながら弓を学んでいくという話であったように思います。頭の形の話はその時私も聞きました。

授業では「庭の樫の木」という話もありました。
ある人(名前は忘れました)が弟子に「悟りとは?」と問うた。「庭の樫の木」と答えた。「よし」と言い悟りを認めた。聞いていた別の弟子に「悟りとは?」と同様に問うてみた。「庭の樫の木」と答えたところ「ばか者!」とこちらはひどく叱られたとの話でした。
悟りとは悟った人が答えれば悟りであるが、悟らないものがことばで何を言っても意味がないということなのかと、この「庭の樫の木」ということばも印象に残った話です。

「百尺竿頭なお一歩を進める」ということばも記憶に残っております。先生は熱く説いていらっしゃいました。道を求めるときに、このような選択を求められる日がいつかあるのかもしれないと漠然と聞いておりました。

これらのことばが後々までも禅問答のように自分なりの回答を探して、心に時々浮かびました。先生もこれらの意味を教えようとしていたのではなく、課題として受け取るような宿題を私達に提出していたのではないのかと今では思っています。


とりとめもないことを書きました。ありがとうございました。

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(2011年9月28日掲載、10月5日追加、2016年7月18日レイアウト変更、2018年10月2日更新)