古文科・桑原岩雄先生(故人)にきく |
−先生が駿台にお入りになったきっかけをお聞かせください。 【桑原】医学の大学者で、すばらしい教育者でもあられた、偉い先生がおられましてね。戦後に、無理に請われて、昔の母校(戦後の高校)の校長になられたんです。わたしはその先生に呼ばれて、そこにおりました。 まあ、昼も夜もなく、一所懸命やったんですが、教育界にもうるさいことがいろいろありましてね。それで、校長の辞められた時、後の仕事のあてもないのに辞めてしまったんです。家族もいたんですが、そういう無茶なことも一度ならずやりました。それからしばらくは、学校に絶望して、ある教科書会社の編集部でアルバイトのようなことをしていたんですが、畠山(裕)先生(元駿台漢文科講師)という、お父さんは明治時代の国学者の一人であった方なんですが、この先生と知り合っておりまして、駿台に紹介されたんです。 畠山先生には「予備校というところは一ぺん間違えたら次の時間には生徒が一人もいなくなるところだ」などと脅かされました。そんなことはないんですがね。実際には、予備校生は、存外に実力をよく見抜いていて、講師の一人ひとりについて、かなり正確な評価をしていたようです。 それで1週に2日ほど駿台に出ることになったんですが、やはり教えるからにはきちんと準備しなくては、と思いまして、文学史の教科書に載っているような物語や日記、随筆といった主だった古典を暇にまかせて全部読み直すことにしたんです。2年間くらいかかりましたでしょうか。こういう目で見直したことは、あとあとまで役に立ったと思います。 −当時、国語ではどんな先生がいらっしゃいましたか。 【桑原】橘(宗利)先生、久米(慶)先生、小柴(値一)先生、それに漢文の畠山先生など、古い先輩の先生方ですね。殊に橘先生は温厚で力もあられた方で、御病気の折の代講などもさせて頂きました。 そのころは、まあ、過去の入試問題などを中心に、教材も作られたり、模擬試験の出題なども行われていました。その後幾年かして、私なども出題を手がけるようになって、入試問題をもっぱら使うということはせず、自分で原典に当たって、生徒の実力を見極め、それを啓発するようなものを出題するよう心がけました。 −他の先生もそういう傾向になっていったのでしょうか。 【桑原】駿台が大きくなって、いろいろな先生がみえるようになるんですが、最初は私の作った教材や問題など「解答例がない」「どう答えてよいかわからない」などといわれて、教授参考のようなものを作ったりもしましたが、その後は、長い間に、殊に新しい若い先生などは、だんだん私と似たような感じになっていったように思われます。 やはり、生徒の力を伸ばしていくためには、その実力を見極めて、それを啓発するような問題を自分の実感で作っていかなければいけないと思います。問題文を探すのに大変時間がかかりますし、設問を作ったり、解答を書いたり、それを何回もやり直したり、工夫したりして、目には見えないところで苦労がありましたが、それで割合に力がつくようになったのではないでしょうか。 −東大の新入生アンケートの「尊敬する人」にしばしば先生のお名前が出てきた、という記事が新聞に載ったことがありますね。 【桑原】そんなことがありましたね。最初、東大では「桑原」というので「桑原武夫氏」のことかと思ったらしいんです。朝日新聞の記者が見え、記事にしたいということなんですよ。私は勘弁してほしいと、ひたすら辞退したんですがね。私は教育を志した人間ですけれども、いわば教育界の敗残者みたいなものですからね。世の中になんの望みもないし、いわゆる教育界に絶望した人間ですから。そういう手紙を出したりして、しきりに辞退したんですがね。 それはちょうど京都校ができる年の2月11日、昔でいう紀元節ですね、「ときの人」という題名だったかと思いますが、大きく出されてしまって。多少の宣伝になったみたいですがね。私も夢を抱いて教師になったわけですが、夢なんか裏切られることが、世の中にはたくさんありましてね。明日からどうして過ごしたらいいかわからないというのに、絶望して教師を辞めてしまい、アルバイトで糊口をしのいで、ようやく予備校の講師になったというような人間ですからね。まあ、こちらが馬鹿で、世間を知らない、夢の中を生きてきたような人間なんです。 −駿台では学習だけでなく、人生にとって得られた部分が大きいという卒業生からの便りがたくさん寄せられるのですが。 【桑原】予備校に来て良かったこと、大変満足したことはですね、一所懸命やって、生徒の力がつけば、学校もまあ、いわば、喜んでくれるということなんですね。排斥されないんですね。教育界といっても、私の経験した狭い世界ですけど、一所懸命やったりすると、かえってまわりから憎まれたりすることもたびたびでした。 もっとも、一所懸命やったって、生徒がみんなついてくるわけではないでしょうがね。それは様々でしょうが、少しは共感する生徒もありましてね、いまだに、便りをくれたり、時には訪ねてくれる人などもおります。すっかり人生観が変わったという人もおりましたが……。教師というのは、そういうことが起こるぐらいのことをしなきゃダメなんですけどね。普通、学校はそういうことのできにくいところですから、まあ、それで、そこの教師を辞めて、予備校に来たのは幸せだったと思います。わたしの経験した世界の教師というものは、もちろん、われわれが足下にも及ばない偉大な人もたくさんおられましょうが、中には、口では「勉強しろ」とかなんとか、もっともらしいことを言いながら、本当に一所懸命やっている人は必ずしも多くはなかったように思います。 もっとも、教育という仕事は他の仕事のように、一所懸命やってすぐに結果が出てくるものであれば、いろいろな評価も出てくるのでしょうが、これは誰がどうしたからどうなったということの、すぐにはわからない世界ですからね。 本当に心の底からゆさぶられる先生というのは少ないですね。私なんかも中学校3年の時、旧制高等学校を出て、1年間臨時に英語を教えてくださった熱心な先生に出会ったことが、最後に教師になろうと決心したもとですからね。そういう魅力と迫力とを持った先生というのは、本当にめったにあるものではありません。その先生は戦後に亡くなられましたが、私は今でも夢に見たりします。もし先生に出会わなかったら、多分、教師になろうという願いを持つこともなかっただろうと思います。 [注] 本文は平成8年にインタビューした折の記事です。 桑原岩雄先生は平成14年1月8日逝去されました。 |