<私たちの主張のリスト>に戻る | <主張03>へ戻る <主張05>へ進む
小さいけど 頼りになる
完全一対一の桑原塾

(私たちの主張04)

「勉強」は、もともとは『遊び』だった

「勉強」は、なぜ『遊び』ではなくなったのか?

 いま「勉強」と呼ばれているものの多くは、もともと、食べるのには困らない人々によって、興味の持てる面白い『遊び』として、自主的に行われたものでありました。
 ですから、どんな「勉強」も、やってみれば「あ、これ面白いじゃない!」と言えるような内容を持っています。でも残念ながら「勉強」は、「面白くない、ただただ押し付けられるつらいもの」と捉えられることが多いのです。
 なぜなのでしょうか?
 その理由として、次の二つが考えられると思います。

(1)勉強の、「過去の遺産」という性格
 たとえば、教科書に載っている問題をあなたが解こうとしてみて、「これは面白い!」と思った、何かを発見した気持ちになって興奮した、といたしましょう。
 それは、とってもすばらしいことです。それこそ「勉強」の醍醐味でありましょう。

 ところが、あなたを「これは面白い!」と興奮させてくれた問題は、当たり前のことですが、あなたが初めて発見したものではない。すでに過去の偉い人によって解かれ、だからこそ価値ある問題として教科書に載っているわけです。教科書に載っている内容のほとんどは、「過去の遺産」なのであります。

  ですから、「学問の歴史はこーんなにあるのだぞ。自分で経験するには多すぎるだろ。結果だけ憶えるほうが良いのではないか?」と言う理屈が出てきます。この理屈を無視することはそう簡単ではありません。

(2)勉強の、「現代の<科挙>」(合格のため)という性格
 私たちの住んでいるこの北東アジアというのは、中国文化の影響を強く受けた地域です。中国には、隋・唐の時代から始まり清の時代に廃止された、<科挙>という官吏の登用試験がありました。<科挙>の勉強のために一生を費やした人もいたと言われます。

 ですから、現代の日本でも、「勉強とはこの試験に合格するためにするのだ」、「この試験の結果が、一生を左右するのだぞ」と、大学入試を(そしてその先にあるいくつかの権威ある国家資格試験を)「現代の<科挙>」のように捉える考え方が、今も続いているのです。

 しかし、以上のような考え方に流されていては、「勉強」について、ほかの子よりも「一段飛び抜ける」ことは不可能だ、と私たちは思います。
 「勉強」をしてもつぶれない、そして、ほかの子よりも「一段飛び抜けることのできる勉強法」を、「肩から力の抜けた勉強法」を、私たちは追求し続けなくてはならないのです。

 

<私たちの主張のリスト>に戻る | <主張03>へ戻る <主張05>へ進む
このページの頭へ戻る

(2008年5月29日分割改訂、2018年10月2日更新)